ぴくちゃあ通信

日本映画をメインにしたブログです。東宝映画を中心に古い作品から新しい作品まで、時には俳優を中心に話を展開します。

追悼・山田五十鈴さん


 2月5日生まれ、山田五十鈴(やまだ いすず) 本名・山田美津

 1917年、大阪府大阪市南区千年町生まれ。
 父は新派俳優・山田九州男、母・律は大阪・北の新地の売れっ子芸者。
 数え6歳の6月6日から母の命で、常磐津、長唄、清元、踊りの稽古に通い始める。
 1923年4月、地元の小学校へ入学。
 1924年、関西へ出稽古に来ていた3代目清元梅吉(のちの寿兵衛)について、本格的に清元を習い始める。
 1925年、一家で東京へ移住。
 1927年、師匠より梅美智の芸名をもらい名取となる。
 1928年、兵庫県宝塚へ母とともに移住、地元の花柳界の芸者や旅館の客に師匠として清元を教える。
 1930年1月8日、日活太秦撮影所に入社。月給は幹部女優並みの100円、父は舞台で月給50円。時代劇部に配属される。
 芸名は、山田の姓は伊勢・宇治山田市に通じるので、その神域を流れる五十鈴川からとって、山田五十鈴となる。愛称“ベル”も、入社すぐにつけられた。
 新婚の渡辺邦男監督宅に預けられ、女優の心得から演技について学ぶ。1930年3月7日封切り『剣を越えて』(渡辺邦男)がデビュー作。
大河内伝次郎の相手役で、伏見直江伴淳三郎が共演。
 京都市右京区花園の鳴滝に母とともに住む。母・律は、脚本が届けられると何度も読んで役柄を細かく娘に説明し、ラブシーンなども自分の体験もまじえて語って聞かせ納得させた。娘の出演した映画は必ず封切館に見に行き、まわりの評判まで聞いてきては、演技の批評をしては娘の女優の成長を助けた。しかし、世のステージママとは違って、いっさい撮影所には顔を出さなかったそうだ。
 デビュー1年目で早くも15本に出演して、順調に成長していった。その後の出演作品はあまりにも膨大なため、省略。
 1934年、永田雅一が作った第一映画へ移籍。月給1000円、1本手当て250円、支度金として2000円。この頃、父・山田九州男と母・律は別居、五十鈴も一軒構えた。
 1935年頃、月田一郎と親しくなり、1936年結婚。
 1936年3月1日に美知子を出産、後の嵯峨三智子である。
 『浪華悲歌』(1936:溝口健二)、『祇園の姉妹』(1936:溝口健二)で演技開眼。
 1936年9月22日、第一映画解散、新興キネマへ入社。
 1938年6月、東宝入社。月給2500円。
 『鶴八鶴次郎』(1938:成瀬巳喜男)で長谷川一夫と共演、ゴールデンコンビの誕生。
 1938年、母・律が腹膜炎で亡くなる。
 1940年、月田一郎と別居。娘の美知子は月田が引き取る。
 1942年、月田一郎と離婚、プロデューサーの滝村和男と正式結婚、しかし、1年後に離婚。
 1943年頃から、花柳章太郎との愛の生活。1945年終止符。
 1947年、フリー。
 1948年1月、父・九州男が十二指腸潰瘍のため急逝。
 この頃は、監督・衣笠貞之助と同棲生活。
 1950年5月、加藤嘉と結婚。
 1952年8月、月田一郎が1945年9月に死亡後、月田の母に育てられていた娘・美知子と再会。
 1952年、第7回毎日映画コンクール女優主演賞、第3回ブルーリボン賞女優主演賞をそれぞれ受賞。対象作品は、『箱根風雲録』(山本薩夫)、『現代人』(渋谷実)。
 1954年2月、加藤嘉と協議離婚。
 1955年、第6回ブルーリボン賞女優助演賞を受賞。対象作品は、『たけくらべ』(五所平之助)、『石合戦』(若杉光夫)。
 1956年、この頃の恋の相手は下元勉。
 1956年、第11回毎日映画コンクール女優主演賞、第7回ブルーリボン賞女優主演賞をそれぞれ受賞。対象作品は、『母子像』(佐伯清)、『猫と庄造と二人のをんな』(豊田四郎)、『流れる』(成瀬巳喜男)。キネマ旬報賞女優賞も受賞、対象作品は『猫と~』『流れる』。
 1957年、キネマ旬報賞女優賞を受賞。対象作品は、『蜘蛛巣城』(黒澤明)、『どん底』(黒澤明)、『下町』(千葉泰樹)など。
 初舞台は、1935年6月の東京劇場での新派男女優合同公演。
 1942年3月、長谷川一夫と新演技座を結成、東京宝塚劇場で旗上げ公演。敗戦で休止、1948年に地方公演をするが、翌年頃には解散。
 1950年代末頃から、映画出演の合間に舞台に立つようになる。
 1962年12月1日、東宝東宝演劇部の舞台を主とする専属契約を結ぶ。
 1938年、「丼池」、「香華」(十種)、「明智光秀」で、テアトロン賞を受賞。
 水谷八重子杉村春子と並んで舞台の3大女優“女優の三艶”といわれるようになる。
 1974年、「たぬき」(十種)で、芸術祭大賞、毎日芸術賞などを受賞。
 1977年、「愛染め高尾」で、芸術祭大賞を受賞。
 1983年、「たぬき」前後篇、「太夫さん」で、芸術選奨に選ばれ、三度目の芸術祭大賞を受賞。
 1993年、文化功労者の表彰を受ける。
 1992年8月19日、娘・嵯峨三智子が、クモ膜下出血のため死去。

 『或る夜の殿様』(東宝1946.7.11公開、監督:衣笠貞之助
 時は1986(明治19)年、所は箱根山の温泉旅館。鉄道敷設利権をめぐって右往左往する人々。彼らに殿様に仕立て上げられるのんびりした流れ者の書生・長谷川一夫。彼に好意をもってなにくれとなく世話する女中おみつ・山田五十鈴大河内伝次郎、藤田進、進藤英太郎高峰秀子飯田蝶子清水将夫、吉川満子、三谷幸子、志村喬、菅井一郎、清川荘司河野秋武北沢彪、横山運平、清川玉枝、花岡菊子、中北千枝子、中村功らの豪華キャストのグランドホテル形式ロマンチックコメディー。
 山田五十鈴コメディリリーフよろしく、達者な演技を軽やかに見せてくれる。小國英雄の脚本がすばらしく、これぞ娯楽映画の王道。衣笠貞之助の演出も、フォトジェニックなショット(撮影・河崎喜久三)を多用して、きめこまかに仕上げている。

 日本映画女優で3人をあげるとすれば、田中絹代山田五十鈴、この二人は文句ないところだろう。次に続くのが、入江たか子原節子高峰秀子、といったところかな。
 山田五十鈴について詳しく知りたい方は、
 「遍歴 女優山田五十鈴」 藤田洋・著、河出書房新社・1998年9月発行、¥1800
 「聞き書 女優山田五十鈴」津田類・編、平凡社・1997年10月発行、¥1700
 資料が充実しているのは、前者で全作品解説つき。
 ダイジェストの読み物は、後者です。
 以上は12年も前の、2000.2.15(火)に記したもの。

 2012年7月9日、多臓器不全により東京都稲城市内の病院で死去、享年95歳。
 映画出演本数260本余り(田中絹代とほぼ同じ)。
 山田五十鈴さんのご冥福をお祈りいたします。

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