2011年3月29日21時52分の記事です。
福島駅から路線バス(休日ダイヤ)にて8km離れた避難先へお見舞い。
妻の実家が福島原発の20km圏内で地震の2日後に強制避難させられ、出産里帰りの姪親子を含めて一家7人自家用車2台に分乗して、20kmよりちょっと外の小学校体育館へ。3日後、そこも危ないということで、姪の姉つまり長女が住む福島市へ移動したわけである。出産間近の末娘親子は、旦那が翌日、横浜から新潟経由で迎えに来て、旦那の実家がある新潟で出産することになった。
それにしても、4人家族の家に5人も居候して大丈夫かな、と思いながら訪問。家は一戸建てで、想像していたよりも広く、敷地も車4台を余裕で駐車でき、ちょっと安心。
それにしても、全く先の見えない避難生活、家はあっても帰れない。仕事は倒産に追い込まれそうだし、農業は廃業になりそうだし、今後どうやって生計を立てていったらいいのか。
ボヤキと怒りを聞きながら、福島を後にした。
妻の実家が福島原発の20km圏内で地震の2日後に強制避難させられ、出産里帰りの姪親子を含めて一家7人自家用車2台に分乗して、20kmよりちょっと外の小学校体育館へ。3日後、そこも危ないということで、姪の姉つまり長女が住む福島市へ移動したわけである。出産間近の末娘親子は、旦那が翌日、横浜から新潟経由で迎えに来て、旦那の実家がある新潟で出産することになった。
それにしても、4人家族の家に5人も居候して大丈夫かな、と思いながら訪問。家は一戸建てで、想像していたよりも広く、敷地も車4台を余裕で駐車でき、ちょっと安心。
それにしても、全く先の見えない避難生活、家はあっても帰れない。仕事は倒産に追い込まれそうだし、農業は廃業になりそうだし、今後どうやって生計を立てていったらいいのか。
ボヤキと怒りを聞きながら、福島を後にした。
当時の記事を再度、アップしています。