ぴくちゃあ通信

日本映画をメインにしたブログです。東宝映画を中心に古い作品から新しい作品まで、時には俳優を中心に話を展開します。

追悼:山口淑子さん



 2014年9月7日、心不全のため山口淑子さんが亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。

 2月12日生まれ、山口淑子(やまぐち よしこ) 本名:大鷹淑子(旧姓・山口)

 1920年、父・山口文雄と母・アイの長女として、満州遼寧(リャンニン)省撫順(フーシェン)に生まれる。下に妹三人、弟二人。
 父・文雄は佐賀県出身で、1906年満州に渡り、同年11月に創立された満鉄(南満州鉄道株式会社)に入社、福岡県出身の母・アイと見合い結婚した。
 父は北京で北京語を習い、夜間には満鉄社員に中国語を教えていた。それを一緒になっておぼえたのが淑子で、やがて父に代わって教えるほどの上達ぶり。
 1926年、撫順の日本人経営の永安小学校に入学。
 1932年3月、満州国建国。
 1932年4月、撫順高等女学校入学。
 1933年、一家で奉天(現・瀋陽)へ移住。奉天女子商業学校へ編入学
 この頃、瀋陽銀行の頭取・李際春(リーチーチュン)将軍の一家と家族ぐるみの付き合いをしていた。中国では親しくなると、お互いの子どもを名目上の養子にして親密の情をあらわす習慣があった。それに習って、淑子も李家の養女となり、李香蘭(リーシャンラン)と名づけられる。
 1933年、奉天女子商業学校に入ってすぐ、胸を患って半年休学。その間、ソプラノ歌手マダム・ポドレソフについて声楽を学ぶ。
 1934年、マダム・ポドレソフが開く年1回の恒例リサイタルに前座出演。振り袖姿で「シューベルトのセレナーデ」など4曲を歌う。これが大喝采を受け、ラジオ局へ李香蘭の名前で出演するようになる。
 この後、いろいろあるが(川島芳子と知り合いになったり)、省略。
 1937年、ミッション系の翊教(イーチャオ)女子中学卒業。
 1938年9月、創立2年目の満州映画協会(満映)が音楽映画の歌の吹き替えの出演依頼があり、新京特別市(現・長春)の撮影所へ行く。行ったところ、淑子の美貌を見込まれて、『蜜月快車』(1938:上野真嗣)の主役・淑琴に抜擢されて、李香蘭の名前で映画デビュー。日本人であることは満映のトップシークレットとなる。
 「李香蘭-私の半生」(山口淑子藤原作弥・著、新潮社・刊)によると、「この映画は、マキノ(満男)さんが、日活多摩川撮影所で製作した大谷俊夫監督の『のぞかれた花嫁』(1935)の翻案である。同作品が日本で大ヒットしたご利益にあずかろうというネライがあった。……(中略)しかし、ストーリーは日本語の原作のシナリオを中国語に直訳した安易な物語で、新婚夫婦を乗せた新京~北京間の寝台車の騒動を描いた他愛もない喜劇である」とのこと。
 以後、波瀾万丈の人生がスタートするのである。
 作品リストは別の機会に。
 1951年12月15日、彫刻家のイサム・ノグチ(15歳年上)と結婚。
 1956年3月、離婚。
 1958年4月3日、外交官の大鷹弘(7歳年下)と結婚。女優業は引退。
 1973年7月、参議院議員選挙に当選。以後、計3回当選。
 1992年、政界引退。
 2014年9月7日、心不全のため永眠、94歳。

 私が好きな作品は『抱擁』(東宝1953:マキノ雅弘)。三船敏郎山口淑子の雪山での恋愛。彼女の最後の主演作といってもいい作品。チーフ助監督・岡本喜八郎(喜八に改名前のクレジット)で、雪崩などの雪山シーンは山男・喜八がほとんど撮ったらしい。