ぴくちゃあ通信

日本映画をメインにしたブログです。東宝映画を中心に古い作品から新しい作品まで、時には俳優を中心に話を展開します。

追悼・高峰秀子さん

 3月27日は、高峰秀子(たかみね ひでこ)さんの誕生日でした。生きていたら、87歳になるはずでした。

 本名:松山秀子(旧姓・平山)
 1924年、北海道函館市生まれ。
 函館でマルヒラ・カフェー、蕎麦屋料亭マルヒラ砂場、マルヒラ劇場を経営していた土地の実力者・平山力松の長男・錦司とその妻・イソの長女で、兄三人、弟一人がいた。
 4歳の時、母が結核で死亡したため、父の妹・志げの養女となる。
 1929年10月1日、高峰秀子の芸名で松竹蒲田入社。
 『母』(松竹蒲田1929:野村芳亭)にて映画デビュー、初任給35円。ちなみに山田五十鈴(1917~)が1930年に日活に入社した時の月給は、幹部女優なみの100円。笠智衆(1904~1993)は、1926年に松竹蒲田の大部屋俳優になった時の月給が28円。その後少しずつ上がって1936年にやっと35円。わずか5歳の子どもが35円の月給は、かなりの高給と言える。
 1931年4月、蒲田尋常小学校入学。
 1936年頃は月給60円になっていたが、祖父の力松一家も同居するようになり、合計9人の生活を養うようになる。
 1937年、月給100円でP・C・Lへ移籍。
 同年9月、P・C・Lは東宝映画となる。
 1947年3月、新東宝設立に参加し、同社専属となる。
 1950年11月、フリーとなる。1本100万円の出演料だったが、彼女にはほんのわずかしか入ってこない。また、1949年8月、青柳信雄(当時は新東宝のプロデューサー)が松竹・木下惠介監督『破れ太鼓』に彼女に無断で出演を決めて300万円を受け取るという事件もあったりして、新東宝に嫌気がさしたから。
 1954年度(第9回)毎日映画コンクール女優主演賞を受賞
      『二十四の瞳』(松竹大船1954:木下惠介)
      『女の園』(松竹大船1954:木下惠介)
      『この広い空のどこかに』(松竹大船1954:小林正樹)
      『悪の愉しさ』(東映東京1954:千葉泰樹)
 1954年度(第6回)ブルーリボン女優主演賞を受賞
                  『二十四の瞳』(松竹大船1954:木下惠介)
                  『女の園』(松竹大船1954:木下惠介)
                  『この広い空のどこかに』(松竹大船1954:小林正樹)
 1955年3月26日、松山善三と結婚。
 1955年度(第9回)毎日映画コンクール女優主演賞を受賞
                  『浮雲』(東宝1955:成瀬巳喜男)
 1955年度キネマ旬報女優賞を受賞
                  『浮雲』(東宝1955:成瀬巳喜男)
 1957年度(第12回)毎日映画コンクール女優主演賞を受賞
                  『喜びも悲しみも幾歳月』(松竹大船1957:木下惠介)
                  『あらくれ』(東宝1957:成瀬巳喜男)
 1961年度(第16回)毎日映画コンクール女優主演賞を受賞
                  『永遠の人』(松竹大船1961:木下惠介)
                  『名もなく貧しく美しく』(東京映画1961:松山善三)

 『綴方教室』(東宝東京1938.08.21公開、監督:山本嘉次郎)
 ベストセラーとなった豊田正子の生活綴方集の映画化。小学校6年の正子を高峰秀子が演じている。父親は徳川無声、母親が清川虹子、二人の弟が小高まさると水谷史郎、小学校の担任が滝沢修という配役。
 製作主任(チーフ助監督)は黒澤明である。

 この豊田正子さんは1922年11月13日生まれで、高峰秀子さんの1学年年上。2010年12月9日に閉塞性黄疸のために88歳でお亡くなりになりました。
 高峰秀子さんが、後を追うように、2010年12月28日、肺がんのため、86歳で亡くなったことは、やはり縁があったのかなと思われます。
 お二人のご冥福をお祈りいたします。

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