ぴくちゃあ通信

日本映画をメインにしたブログです。東宝映画を中心に古い作品から新しい作品まで、時には俳優を中心に話を展開します。

『日大闘争』(1968)『続日大斗争』(1969)






 『日大闘争』(1968)『続日大斗争』(1969)を、国立映画アーカイブにて見る。5月3日から始まった「発掘された映画たち2022」の2本。420円。
 『日大闘争 他(計113分)』のプログラム
『日大闘争』(日大全共斗映画班1968)
 58分・16mm・パートカラー
『続日大斗争』(日大全共斗映画班1969)
 55分・16mm・パートカラー
 中学の頃までの日大は右翼体育会系運動部の総本山、というのが私のイメージ。
 1968年に高校に入ると、日大全共闘秋田明大全共闘議長、という文字をよく新聞で見るようになった。あの右翼・日大でも学生運動が起きるんだ、それにしても明治大学の学生が何で日大の議長なんだ、と不思議だった。あとから、秋田明大<あきた あけひろ>と読むとわかり、納得。
 1968年1月に裏口入学斡旋で理工学部教授が3000万円を得ていたことが発覚。さらに4月には国税局の監査で過去5年間で合計約20億円の使途不明金が発覚、5月には日大の使途不明金と源泉脱税は合計34億円にのぼると公表された。
 これに怒った学生たちが、学部学生会ごとに抗議集会が開かれ、やがて全学部に広がり、それを束ねる意味で、日大全共闘が結成された。
 その経過を、最初の頃は粗削りなカメラワーク、運動が激化するにつれて、学生たち個々のアップを多用して、そのカメラ技術もグレードアップしてくる。
 前編の初期はデモ行進も無帽・素手、後半からはほぼ全員がヘルメット、そして手ぬぐいマスク、ゲバ棒を持っている。
 前編のクライマックスは、両国の日大講堂での古田重二良会頭との大衆団交。3万人の参加者の前で、古田会頭辞任の言質を獲得。
 後編は、運動の衰退。古田会頭辞任もウヤムヤにされ、闘争の激化で一般大衆からの支持も失う。各学部のバリケート封鎖も大学側(右翼団体やら運動部が主体)の反撃で破られ、大学から排除されてしまう。
 圧巻は、郡山の工学部学生の排除。たった12人だけで立て籠もっていた学生に対して、工学部学部長指揮のもとに、教職員・運動部員など総勢500人が攻めかかる。途中、火炎瓶などで一部火事となり、消防車がやってくる。それを学部前で運動部員たちが阻止、運転台によじ登って消防隊員を引きずり降ろしたり、、、。あくまでも、学生たちを私的制裁で排除する方針。屋上によじ登った職員・運動部員たちが、学生たちを滅多打ち。全員担架で病院送り。それも救急車ではなく、大学側の手によって、、、。
 芸術学部バリケード封鎖が一番長かったみたいで、内部に立て籠もる学生たちの生態が頻繁に出てくる。様々の表情を見せてくれて興味深い。彼らの20~30年後、どんな活躍をしたのだろうか。
 経済学部1年だったテリー伊藤(1949年12月生まれ)はデモ行進に参加して、投石が目に当たり入院。秋田明大(1947年1月生まれ)は経済学部4年の時に議長。
 芸術学部放送学科卒業の若松節朗監督は1949年5月生まれ、ストレートに入っていれば1年生。
 同じく放送学科卒業の平山秀幸監督は、1950年9月生まれなので、1968年は福岡県立戸畑高校3年生。この闘争のど真ん中にいた芸術学部出身者の話を聞いてみたい気もする。
 ともあれ、日大闘争は、秋には失速してしまう。このままでは4年生全員留年だ、という大学側の説得というか脅しが効いて、11月頃から、単位取得のための集中講義も行われて、東大と違い、入学試験も行われて、1969年4月からは元の右翼・日大へと逆戻り。
 その流れは、この日大全共闘と全面対決した相撲部・田中英壽(1948年12月生まれ経済学部卒業)第12代理事長へと引き継がれているわけである。
2022年5月10日(火)鑑賞


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